「首になる」についての一考察

时间:2022-08-19 04:33:43

【摘 要】日本には、たくさんの用句がある。それを正しく使えば、コミュニケションがスムズになる。本稿では「首になるを例にして、用句の源、基本的な意味と用法を探ってみることにした。

【关键词】首になる 用句 源 意味と用法

【中图分类号】H36【文献标识码】A【文章编号】1006-9682(2010)11-0057-02

一、はじめに

先日、ある授で「首になるという用句を勉した。その後、この用句にものすごく味を持ったので、それで、いろいろな料をべ、「首になるという用句の源、基本的な意味と用法を探ってみることにした。

二、「首になるという用句の源

周知のように、「首」はと胴とをつなぐ、ややくなっている部分で、部から上の部分、かしら、こうべ、あたまを指すのが一般的である。首はもっとも脆くて、また人の体の中で一番重要なところでもある。だから、首がないと、人は生きられなくなり、すべてがぱっと消えてしまうことになる。したがって、首をめぐって、いろいろな言い回しが出てくる。その中で、一番味深いものがこの「首になるという用句である。

昔の日本では、「首」を狙われ、「首を切る」、あるいは「首を切られる」ことは常だった。特にでは、なる集に属する人がをってし、「首を取るがあった。これを当では「首狩り」と言った。ち取ったの首を大将の前で面者にせ、その首の主をさせ、あるいは容疑者などを知っている人に会わせ、本人かどうかをかめさせることを「首」とも言われた。これらの行はすべて部に的な力が宿るという原始的な信仰に基づく宗教的行であり、また耕社会に特的にられる典型的な「お祭り」の一つでもあった。これらの行はまた、しばしばの礼とを合させていた。捕まえられた捕や、特に逮捕された罪人などは罪にされ、その役目を演じた人が「首切り」だった。られた首はにけてさらすが、打ち首になるどころか、返って良く助かる、あるいはされないでむことを「首がつながる」という。「首を切る」「をく」「首をける」「首がぶ」はすべて首を切られてされる意であるが、打ち首になるところを、されて助かるは、「首をぐ」ことになる。

まさに「首」は命にかかわるもので、「首を切られる意から」を失うことを想させるが、「首にする」は普通免、解雇、または除名することをえて言うのにして、「首になる」は免、解雇、または除名されることをえて言うことになる。

「首になるを中国にすれば、“被辞退、解雇、开除;卷铺盖走人;被炒鱿鱼”などと、いろいろなを当て嵌めることはできるが、ここからも中日国の史と文化のいをうことができるであろう。昔の中国では、解雇された人がほとんどえるところはなかった。雇い主に解雇されたら、その人は自分で布などを片づけて家へるしかなかった。それで、人々は解雇される、または免されることにものすごくえるのである。こういうことから、ある人は「布を片づける/卷铺盖走人という言い方を使い始めるが、しかし、そのころは、雇い主が布などの寝具を提供してくれるはずはなく、雇用された人が必ず自ら布などを持参しなければならなかった。だから、出稼ぎでいざ彼らが解雇されたには、自分で布などを片づけて持ちりをしなければならなかった。

もう一つのであるが、それは“炒鱿鱼”である。これを日本に直すると、「いかを炒めることになる。「いか炒め/炒鱿鱼は中料理の一つで、初めは中国の南沿海地方で流行り、次第に全国にまって行ったのであるが、いつからかは知らないが、それを人にも使うようになった。イカはツツイカ目とコウイカ目の体物の称で、主に深海にしか捕れないものだが、中国の南沿海地方では、遥かい昔からそれを料理に使っていた。理するときは、小さく刻まれたイカでも、加すると、グルグルといてしまう。このような景から、解雇された人がグルグルと布をき上げるのを想して、南の地方では、北の地方の「布を片づける/卷铺盖という言の代わりに、「いかを炒める/炒鱿鱼を以って解雇、免された人のことをえて言うようになったという。

今日では、「首」も「首を切る/切られる」、「首を取る/取られる、「をく/ける」、「首がぶ」、「首にする/なるはすべて中国の“炒鱿鱼”という意味でよく使われるが、しかし、今まで解雇や免されるのはほとんど下の出稼ぎやのような人たちで、上にいる人、例えば、何のなにがしの社さんなんかを「首にする」、あるいは「首になる」ことはほとんどなかった。こういう意味で、にかつて雇用されていた人が何かの原因や理由で、解雇や免されるのではなく、自ら会社を辞めたらどうだろう。このは当の社に向かって、「俺が首にされたんじゃなくて、お前さんが首だよ。首になるのはお前さんだよ。と、言えはしまいか。

三、意味と用法についての考察

「を辞めること自体は理解しやすいが、「会社を首にする」、あるいは「社を首になる/老板被炒了鱿鱼ということになると、がちょっとってくる。なぜなら、「を辞めることは、雇われた当人が原因のいかんをわず、とにかく自分がやりたくないには、いつでも自分が困らないように、喜んで自分の意志で的にめられるのであるが、「首にするというと、それが自分の意志でめられるわけではなく、すべてが上司の意思でめられることだから、言うまでもなく上司の意思にわなければならない。言いえれば、即ち何かのされないミスで自分自身としては辞めたくなくても、自分自身の好き好みとはなしに、上の人に迫られて会社を辞めざるを得ないときを言うのである。

つまり、本人が自らやりがなくなるには「辞める」のだが、会社の定により、何かの不正やミスを犯した合は「首にする」。「首にされた」当人にしては、辞は自分の意志によるものではなく、受身の形でいられたので、言うまでもなく果的には「首になることになる。上の方からは「首にする」のだが、「首にされた」方には「首になる」。例えば、「会社は仕事を怠ける人を首にする」の「する」は他で、理解しやすいが、「人命救助で一有名になった田中さんは、麻が原因で就先を首になった。」の「なる」は自なのに、どうして受身の意味で使われるのであろうか。また「彼は会を首にした会は彼に首された」はみな他だから、理解できるが、「先生を首にならないように」ということになると、どうだろう。このような例はに数多く存在する。例えば、「このことが公になっても仕事を首になる程度で、たいした罪には成らないとか、「をもらった人を首になるなどがそれである。

自に「をを使ってよいものかどうか、皆さんは考えたことがあるのだろうか。しはちょっとずれるかもしれないが、日本人の日常生活をよく察してみると、このような例はして珍しくなく、に数多く存在している。例えば、「休むという自だが、学校に通っているものは「学校を休むし、行に通っているものは「行を休み」、病院に通っているものは言うまでもなく「病院を休む」ことになる。は、このような自に「を格をとるものには、主に次のようないくつの合が考えられるのではないかと思われる。

1.れる所を表すとき。例えば、

(1)教室を出る。

(2)席を立つ。

(3)バスを降りる。

2.移、あるいはの所を表すときに。例えば、

(1)公を散する。

(2)名所旧をねる。

(3)が空をぶ。

(4)が川の中を泳ぐ。

(5)山を登る。

(6)ここを通ってに行く。

3.喜怒哀などの持ちを表すときに。例えば、

(1)のことを笑って(泣いて)いるのですか。

(2)何を喜んで(悲しんで)いるのですか。

(3)君のことを好き(いや)になってからみがえなかった。(4)死なれたい犬のことを悔しいやら悲しいやらで日ぶつぶつと独り言をり返している。

(5)のことを怒っているのですか。

4.用的なもの。例えば、

(1)が空をべるわけを考える。

(2)君は日本をせるのか。

(3)それをどうして分かるのか。

(4)会社を休むとは思わなかった。

(5)彼を首にならないように援していく。

四、りに

以上は首をめぐる用句について述べてきたが、「首になるの「なる」は自だが、には他として「を格を取ることがある。例えば、「この会社に勤めていさえすれば 首になることはない「彼は首になりはしないかと日びくびくしているのように、この二つの文の中にはどれも「首になる」という言を使っているが、言いえれば、ここの「首になる」はいずれも「首にされる」に置きえることができる。このような特な用法を普段から注意して集めれば、自分自身の学力がアップできるだけでなく、日本の勉ももっと面白くなるのではないかと思われる。

参考文献

1 广辞苑(电子辞典)「Z」.日本:CASIO

2 松村明.大辞林「Z」.日本:三省堂,1989:708~709

3 宋文军.现代日汉大词典「Z」.中国商务印书馆日本小学馆,1987:489

4 上野久德.广辞林(第六版)「Z」.日本:三省堂,1983:543~534

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